映画・テレビ

2014年2月13日 (木)

そして父になる:奇跡について

19歳のときに、是枝裕和監督の「幻の光」を見た。
しょっぱなの街灯が写っているシーンで、すでに名作だと思った。

それからずっと彼の作品を見続けているが、「幻の光」を超える作品を作るのは無理なのではないかと思っていた。

でも、是枝監督は「奇跡」という映画を作った。映画好きにはたまらない映画だ。

映画は歴史だ。
というかあらゆる芸術はすべて歴史を反映しないといけない。過去作られたあらゆる作品を上回れるかどうか、ということが芸術家には問われるのだ。

村上龍が文学を志したのは、「音楽ではけっしてビートルズを超えることはできないから」という理由だ。それはある意味正しい。

でも、彼はドストエフスキーやトルストイなど並みいる文豪を彼なりのやり方で超えられるとは思ったから文学を志したのだろう。そして、それはある意味、成功しているとは思う。

「コインロッカー・ベイビーズ」「愛と幻想のファシズム」それに「希望の国のエクソダス」はその時代を反映しつつ、その時代でしか作られないものでもあり、またなおかつその時代を超越している。

「奇跡」という作品が素晴らしかったのは、それまであった映画の文法を捨てて、前田兄弟という素晴らしい素材をもとに、彼らを映画の共犯者に仕立てて、映画を超えたところで映画を成立させたことだろう。

たとえば、北野武が映画を解体して、新しく映画の文法を彼なりの解釈で作り直し、「ソナチネ」を作り上げ世界をあっと言わせて、それをさらに昇華させて、ひとつの映画の完成形を「HANA-BI」で見せたように。
(「HANA-BI」公開当時にはロンドンに住んでいたが、あのTimeoutをして、「ロンドンという街で今上映されているただひとつ映画史上に残る傑作」と評されていたことをいまだに覚えている)

「幻の光」が映画のひとつの完成形だったように、「奇跡」もまた映画のひとつの完成形だった。
だから、そのあとに作られた作品である「そして父になる」はどうしても見たい作品だった。

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前評判が非常に高く、またカンヌで審査員賞を受賞しいるので否が応にも期待感は高まった。
しかし、見て正直、なんとも思わなかった。

自分の判断がおかしいのかと、英紙ガーディアンの辛口映画評論家のPeter Bradshaw氏の批評を読んでみて、なるほどと納得した。(ちなみに彼も大の是枝ファンだ)

Like Father, Like Son – review

いわく「but however well acted, the film has a black-and-white assumption(どんなにうまく演技されていても、結局のところ最初から白黒と決着が着いている)」と言っている。

是枝作品のいいところは、白黒はっきりと映画自体では何も言わず、観客任せにしているところだ。それがこの作品には決定的に欠けている。

だからこそ、「奇跡」は素晴らしく、また「幻の光」は全く違った意味で情緒豊かで心に響くのだ。最初から答えの分かったテストなど意味がないように、やたらと評判が高いこの映画「そして父になる」は最後まで見続けるのがとても苦痛な映画だ。

もちろん、これは是枝監督のファンだからこその意見といえる。
特になんの先入観なく見たら、もっと素直に感動していたのかもしれない・・・・・ただ個人的な意見としては、「生みの親より育ての親」と思っているので、主人公の心の動きには共感は出来ない。

題材が題材なだけにもっとコミカルな要素をふんだんにいれておけば、楽しめたかもしれない。
悲劇な結末な「誰も知らない」ですら、もっと映画的で楽しい瞬間があった。

子役が前田兄弟ほどの魅力もなく、唯一の救いがリリー・フランキーさんが出ている場面か・・・・まったく芸達者な人だと思う。完全に福山雅治を演技で食っているし。

結論的には、「奇跡」を見ていないのであれば、マストで見るべきかと。


(「パッチギ!」でもそうだったが、ダメ男を演じたらオダギリジョーの右に出るものはいない)

コアな映画ファンも楽しめるし、またそうでなくても娯楽作品として非常に完成度が高い。世の中は悲劇や重厚なテーマの作品を評価しすぎる傾向があるが、こういう作品こそもっと評価されてしかるべきだと思う。

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2013年1月20日 (日)

【映画評】ライフ・オブ・パイ / トラと漂流した227日

アン・リー監督の最新作である「ライフ・オブ・パイ / トラと漂流した227日」を見に行った。スペイン語のタイトルは「Una aventura extraordinaria(あり得ない/とんでもない冒険)」なのだが、このタイトルのほうがこの映画のテーマにあっているなと思う。

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ずっと彼の映画のファンなので、とても楽しみにしていた。英国紙ガーディアン紙で、3D映画であることを意識して作ったと語っていたので、それを確かめるべく3Dで鑑賞した。

見を終わった感想は「これはやはり3Dで見るべき映画」ということと、最後のシーンとそれまで語られたことに対して、どうにもやりきれない気持ちが残り、「真実とは?」ということについて深く考えさせられる。(特に映画の冒頭のシーンでたくさんの動物が出てくるが、3Dで見るとまるで自分が動物園にいるかの気分にさせられる。3Dならではの奥行きを活かした画作りが成功した例と言える)

そして、真実が残酷であるならば、真実を伝えること自体になんの意味があるのかということについても考えさせられる。

アン・リー監督の作品で好きな作品はたくさんあるけど、個人的にはロード・オブ・ザ・リングのイライジャ・ウッドやクリスティーナ・リッチなどが出ている「アイス・ストーム」という作品がとても好きだ。グリーン・ディステニーなどの大作に比べるととても地味な作品だが、アン・リー監督のストーリー・テラーぶりが光り、印象的な作品となっている。

「ライフ・オブ・パイ」でもその手腕は活かされ、3D映画による圧倒的な映像美に加え、その映像に隠された真実のストーリーを最後に浮かび上がらせる。

ジェイムズ・キャメロン監督の「アバター」以来、ようやく3Dで見るべき価値のある映画と言える。

この映画のテーマは色々とあると思うが、最終的には「人間賛美」といえると思う。もっと詳しく述べると、「人間の想像力の素晴らしさ」だ。「真実とは何か?」と追求することは詮無いことで、それをも凌駕する想像力があれば、どんなに辛い現実でも人間は耐え抜き、それに打ち勝つことが出来るということだろう。

まだ2013年は始まったばかりだけど、この映画は今年ベスト3には入る映画だと思っている。必見です。


(どうしても結末が気になった人は、原作を読むことをお薦めします。とても読みやすく、英語学習者にも最適な本かと)

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2012年9月20日 (木)

ゾンビ映画を哲学的に語ってみた:ウォーキング・デッドに寄せて

悲劇は人生をより一層慈しむためにある舞台装置だと看過したニーチェが「悲劇の誕生」という本を、恐ろしいことに若干28歳の時に書いた。

分かりやすい例で言えば、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」が挙げられる。

想像して欲しい。

あの二人が死なないまま、「いやー、やっぱ老後が人生の最高のときだね、ダーリン」とか言い合っていたら、なんの盛り上がりもない話しになってしまうだろう。

「死」という舞台装置があってこその「ロミオとジュリエット」であり、悲劇であるからこそ永遠に語り継がれるべき物語なのである。

そこでゾンビだ。

ゾンビ映画は死んでから、悲劇が始まる。
愛する人、愛する家族が変わり果てた姿で、あなたに襲いかかる様を想像して欲しい。

まさしく、それこそ悲劇である。

だが、たいていのゾンビ映画はそんなことよりも、ホラー的な要素が強いか、グロテスクな描写に走るかに過ぎない。

近年、非常に良く出来ているゾンビ映画と評価出来るのは、「ドーン・オブ・ザ・デッド」と「28日後」が挙げられる。

いきなり最初のシーンで最愛の人たちを失くすなり、やたらと足の早いゾンビに追いかけられるという新機軸を打ち出した「ドーン・オブ・ザ・デッド」は衝撃的だったし、「スラムドッグ・ミリオネア」でアカデミー賞を受賞したダニー・ボイルが監督した「28日後」は人っ子1人いないロンドンの映像だけでも見る価値がある非常にスタイリッシュな映画だった。

そうして、ようやく本題である「ウォーキング・デッド」の話になる。

このTVシリーズは、ゾンビものでしか表現できない「最愛の人がゾンビとなった場合、あなたはどうするか?」という深遠なテーマを軸に展開されており、また「人間にどうしてそのような試練を、神はたまわしたのか?」という疑問をわれわれに突きつけている。

そして、随所に当然、観客をどきっとさせるような仕掛けが満載であり、非常に飽きが来ない素晴らしいゾンビものになっている。

ニーチェは「死」こそが悲劇の最大の舞台装置と考えたが、「ウォーキング・デッド」ではその考えをさらに発展させ、死してもなお悲劇は続き、そしてその不幸はまわりに拡大する。

この物語に果たして救いがあるかどうかは分からないが、ゾンビという特性を活かせば、ニーチェが看過した「死」という舞台装置がより一層効果的に使うことができ、物語がより悲劇性を帯びるということを証明してくれた傑作であることに間違いない。

ブエノスアイレス・ゾンビ映画研究会 会長(嘘)


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2012年4月26日 (木)

お薦めの洋画3本:英語学習のために

エミュレーツ航空を初めて利用したのは20歳の頃に、スコットランドの首都エディンバラからインドに飛んだときだった。その頃、ドバイなんて聞いたこともない都市だったので、ドバイ経由の飛行機なんて不安でしょうがなかったが、いざ乗ってみるとその当時は珍しい個人用ビデオ、それに良質な食事、エコノミーとしては広い座席と最高のエアラインだった。

今回、ブエノスアイレスにエミュレーツ航空が就航したので、日本に行ったときに久しぶりに利用してみた。ただネックはやたらと時間がかかることだ。帰りの便に到っては、合計38時間もかかった。よって、映画を10本以上観ることになった。そのなかで最も印象深かった映画が「ラブ・アゲイン」という映画だ。

「40歳の童貞男」で名を馳せたスティーブ・カレルと、個人的に若い頃からファンのジュリアン・ムーアが出ている映画だったので、何気なしに観た映画だったのだが、これが意外と面白く、最後に結構感動した。前知識なしに観たのがよかったのだと思う。

ストーリーは到ってシンプルで、「25年連れ添った妻に浮気された男の一騒動」と言ってしまえばそれまでだ。しかし、そこには様々なエモーションが絡み、また魅力的な登場人物に彩られ、最後には大団円を迎える。ただの軽いコメディと思って観ると、かなり痛い目を見る映画だ。

英語学習に役立ちそうな気の利いたセリフも散りばめられている。

こういう映画を観ると、ハリウッド映画の奥深さを感じられずにはいられない。肩肘張ることなく、さらっと良質なエンターテイメントを届ける場所は、ハリウッドを置いてほかにない。

また次点として印象深ったのは「ドライヴ」と「少年は残酷な弓を射る」だ。


「ドライブ」はミニマムな映像スタイルと、主役のライアン・ゴズリングの寡黙な演技が目を引く。「少年は残酷な弓を射る」は原題は「We Need to Talk About Kevin(ケビンについて私たちは話すべき)」というのだが、そのタイトルが本当にしっくりくる内容だ。

残酷な犯罪を犯した少年の母親が主人公という、どう転んでも後味の悪い映画になることは明らかなのだが、胸にずしりと響く重量感溢れる映画に仕上がっている。イギリスの鬼才、デレク・ジャーマンのミューズだったティルダ・スウィントンがまさかこのような役にやるような女優に成長するとは思ってもみなかった。

いつも変な服を着て、変な役をしていた彼女だったが、この難しい役どころを完璧にこなし、冒頭のトマト祭りのシーンでは彼女の表情とトマト、それに血のイメージが渾然となってとても印象的なシーンだった。このシーンを見るだけでも価値のある映画だ。

ちなみに圏外というか、論外な作品が日本映画「ワイルド7」だ。

瑛太、椎名桔平、それに中井貴一という有名どころが総出演しているが、くだらない、本当にくだらない映画だ。きっとものすごく努力して映像や照明に時間をかけているのが分かるが、それがすべて裏目に出ており、本当にどうでもいいと思ってしまう。

この映画が二流、三流の役者たちが出演しているのあれば、このクオリティでも我慢出来るかもしれないが、これだけの役者とお金をかけて、この結果というは納得出来ない。一体どこでどう間違えれば、こんなひどい作品が出来上がるのだろうか?(昔、仕事でとある会社にソフトウェアの制作を依頼したが、出来たものは最低の品質だったので文句を言ったら、担当の女性が「私たち、徹夜で努力しました!」と言って逆切れされたことを思い出した・・・・・)

最近、怒っていない人が怒りたい時に「ワイルド7」はお薦めです。観た後、本当にいらっとします。

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2011年12月28日 (水)

映画評:Eat Pray Love<食べて、祈って、恋をして>

この映画を見終わったら、ちょうど夜行バスに乗って深夜アルゼンチンの草原を走っていた。見渡す限り、夜空が広がりとても星が綺麗な夜だった。

この一年、いいことも悪いことも色々とあったが、目の前いっぱいに広がる星空を見ながら、「悪くない一年だった」と思えた。

人生では自分自身のコントロールを手放すことは中々難しいことだ。それは年が経つにつれて、顕著になる。20代の頃は何も持っていないから何にでもチャレンジできるが、30代40代になるにつれて、所有するものも増え、それについ執着してしまう。

この映画の主人公リズも、そんなにっちもさっちもいかない状況に陥って、一年間の旅に出る。

旅は人をフラットな視点に立ち返らせるいい機会を提供してくれる。特に一人旅だとなおさらだ。人は年を取り続けることによって、何かを失い続ける生き物なのかもしれない。それは若さだったりチャンスだったりするわけだが、だが逆に失った数だけ新しいことを学んだり経験したり、色々なことを自分のなかに取り込むことも出来る。

いかにコントロールを手放すか、ということがこの映画のテーマの一つになっているのだが、リズも最後の最後までそれが出来ないで苦しむことになる。(一部、モテるアメリカ女性の典型的な悩みだなということもあり共感できないこともある)

今年、東京からブエノスアイレスに移り住んだわけだが、東京で培ったものもすべて手放しても、やはりブエノスアイレスに来た甲斐があったと思う。来年も、そして再来年も、これからもずっと何かを手放し、何かを得るというプロセスを繰り返し、自分自身を成長させていければと願っている。

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2011年1月21日 (金)

悲情城市の街:宮崎駿と侯孝賢を結ぶ点

高校生の頃、同級生にモリくんという仲の良い友だちがいた。
彼は侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の「悲情城市」という映画が映画史上に残る最高傑作だから見るべきだと言い張った。彼の言葉に従い、その映画を見たのが人生で初めて台湾という国を意識したときかもしれない。

個人的にはほぼ同時期に見た陳凱歌(チェン・カイコー)の「さらば、覇王別姫」という映画のほうが印象深かったが、それでも「悲情城市」で描かれた九份(キュウフン)という土地はとても印象に残った。

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街全体が迷路のように入り組んでおり、一歩メインストリートから外れると、迷子になってしまう。アジア的というよりはどこかヨーローッパの風情を感じさせる街並みだ。

九份へは台北のMRT忠生復興駅からバスで1時間ほどで行ける。台湾屈指の観光スポットだけあって、たくさんの観光客で溢れかえっている。そのなかの何人が「悲情城市」という映画を知っているのだろうか?日本人の観光客にとっては宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のモデルとなった土地というイメージのほうが強いかも知れない。

もしかしたら、宮崎駿も「悲情城市」を見て、興味を持ったから自分の映画の舞台に使ったのかも知れない。そんなことをあれこれ夢想しながら、この街を歩いた。

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台湾人の極め細やかなセンスはどこか日本人と相通じるものがある。

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「悲情城市」という映画を観てから20年近く経ったが、その舞台となった土地に来るとは当時からは想像も出来なかった。モリくんとはしばらく会っていないが、今度会ったら自慢出来ることがひとつ増えた。それだけでも来た甲斐があったというものだ。


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2011年1月15日 (土)

映画:エリックを探して

イギリスの2大巨匠の一人、ケン・ローチ監督の「エリックを探して」を観に行った。
(ちなみにもう一人の映画監督は「秘密と嘘」を撮ったマイク・リー監督です。愛だの恋だのが好きな人は必見の映画です)

ケン・ローチ監督の映画を初めて見たのはスコットランド留学中に、友人たちとスペインのマドリッドに行ったとき、たまたま映画館で上映していた「レディバード・レディバード」という映画を見たのが初めてだった。この映画はもう本当に気が滅入る映画で、なにがいいのかさっぱり分からなかったが翌年のエディンバラ映画祭でケン・ローチ監督の「大地と自由」という映画がオープニング映画として上映されたのを見て、完全に心を奪われた。

それからというもの彼は僕の心のなかの「映画の巨匠」として君臨しており、新しい映画が上映するたびに観ている。

イギリス社会は「蛙の子は蛙」という言葉どおり、労働者階級に生まれたら音楽かフットボールで成功しない限り、社会的な成功を望めない。だからこそ、音楽もフットボールも世界に通用するような良質なものが生まれ続けるのだろう。彼らにはそれしか這い上がる道がないのだから、Jポップの人たちみたいに「お父さん、お母さんありがとう!」みたいな気の抜けた詩を書いている輩とは、志が違う。

ケン・ローチは一貫して、その労働者階級のやるせない思いを描き続け、初期の頃の映画は本当に救いもなく、ひたすら暗い作風だったが、「大地と自由」の頃から多少救いのある映画を撮り始め、本作「エリックを探して」ではユーモアさえ交えて、彼らの厳しい環境からの「救い」を描いている。

人はどのような境遇にあろうとも、クリエイティブな気持ちを失わない限り、どこかに救いがある。そんな気持ちにさせられる映画だ。

一緒に観に行った友人は「映画じゃなくて、現実みたい」と言ってお気に召さなかったが、ハリウッド映画に食傷気味な人、違う国の違う社会に興味のある方は必見の映画です。

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2010年11月19日 (金)

The Corporation: 企業を人間に例えると・・・・

サイコパスとのことです、この映画「The Corporation」によるとですが。

ノーム・チョムスキー、ピーター・ドラッカー、それにフリードマンなど錚々たるメンバーのインタビューを通じて、企業の本質に迫るドキュメンタリー映画で、とても見ごたえがあった。

現在の資本主義下による企業の目的は「利益の追求」であり、そのためには手段をいとわない。法律も犯すし、従業員は使い捨てにするし、彼らに不当な賃金しか払わず、顧客よりも株主の利益を最優先させる。

この映画で取り上げられる企業で、そのような意味で最も特徴的な企業は米国モンサント社だ。

酪農と牛の成長ホルモン

そもそもアメリカではミルクは余っており、モンサント社のホルモン増強剤を使ってミルクを増産する必要性すらなかった。しかし、彼らの巧みな広告戦略に騙された酪農家たちはこぞって、それを使って結果牛を「ミルク製造機」に変えた。そして、そのように産み出されたミルクは牛にも人体にも悪影響を及ぼすとんでもない代物だ。

そもそも、ベトナム戦争時に悪名高き枯葉剤を開発し販売していた会社だけに、人への影響など考慮に入れていない。

モンサント社なしで世界を養う方法は?

上記の記事を読めば分かるが、そのような企業が人々の口に毎日上る食品の多くを支配下に置いているという事実がある。2006年のノーベル平和賞受賞者であるムハマド・ユヌス氏が講演で言っていたが、世界を変えることが出来るのは、「彼ら」ではなく我々だ。我々がその製品がどのような過程を経て作られたか自覚し行動すれば、モンサント社のような企業をここまで巨大企業に育てることもなかった。

世界は他人事ではなく、自分ごとだ。
ひとつひとつの選択が、今後連なっていく子孫の世代へと受け継がれていく。願わくば、彼らの世代が我々の世代よりも豊かで幸福であって欲しい。しかし、世界は着実にそれとは逆方向へと向かっていっている。

この映画でも最後に語られるのは、「行動する」ということについてだ。消費者が賢く情報共有を行い、自覚を持って消費活動を行わないと、世界はどんどんと悪い方向へと向かっていってしまう。

安いことにはそれなりの理由があるのだ。そして、それは多くの場合労働者の犠牲によって成り立っている。そのことを自覚し、「なぜ?」という疑問を常に持ち合わせていることがとても重要なことだとこの映画を通じて改めて思い知らされた。

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2010年7月 5日 (月)

映画「告白」について

中学時代は人生で一番醜悪な時期だろう。肉体的な成長に精神的な成長が追いつかず、そして容姿も脱皮しかかった虫のように中途半端。個性も確立されておらず、自分の考えと他人の考えの区別がつかない時期でもある。

そんな特徴がよく表現されている映画だなと思う。

オスカー・ワイルドは「自覚されたことはすべて正しい」と言った。何もかもが本当は未経験な中学生は、物事を「知る」ことは出来ても、自覚することなんて出来ない。前提となる彼らの世界は異質なものであり、その世界観は自分たちの感情によって歪曲され、彼らのルールはたいての場合極端であり、ひどく残酷でもある。

集団心理に支配されて、逃げるということすらままならない学校という場所は、人間を追い詰めやすい。そして、追い詰めている側はなんの罪の意識もないので、なおさらタチが悪い。

この映画で最も残酷だと思うのは、主人公の少年の唯一の理解者のあのような最期だ。彼女もまた自覚が足りなかったと言えばそれまでだが、彼に対する認識は一番正しかった。そして、それを知った復讐者(松たか子)は哄笑する。その笑いの本当の意味を知るのは物語の最期になるのだが、それとラストシーンの捨て台詞を合わせると、彼女がいかに徹底したリアリズムを元に完璧に復讐を遂行したかが理解できる。

復讐をテーマにした傑作映画はいくつかあるが、そのなかでも個人的に最高傑作だと思うのは「オールドボーイ」という韓国映画だ。映画「告白」はそれに比べると、演出的に重くならないように工夫され、比較的容易に咀嚼できる。
(オールドボーイを観たあとは、腰が抜けて動けなかった・・・・それほどすごい映画と思う)

すべての物語は語りつくされ、復讐劇も古今東西を問わず、様々な形で繰り返されてきたが、演出によってこれほど趣が違ってくるのだなと実感出来る映画だ。特に映画の冒頭シーンの生徒たちが牛乳を飲むシーンはとても印象的だ。あのシーンを観ただけで、これから繰り広げられる物語にとても期待が持てた。

余談だが知り合いの映像編集者は中島哲也監督は「鬼のように人使いが荒く、何人もの知り合いを病院送りにしている」と言っていた。そして、「嫌われ松子の一生」の主演女優である中谷美紀は、その撮影のあまりの過酷さでインドに傷心旅行へと旅立った。

けだし、作品のクオリティと人間的なクオリティは比例しないものだ。中島監督の撮影に参加する人たちは、出来上がった作品のクオリティの高さを信じて、日々の苦痛に耐えているのだろう。

ちなみに「中島哲也監督 鬼」でGoogle検索すると、約 82,900 件ヒットする。そのなかに下記ブログを見つけた。

中谷美紀 VS 中島哲也監督の因縁再び!?「中島監督が大っ嫌い」だった日々を告白

主演女優に対して「殺してやる」と本気で言う人は、ヒエラルキーの一番下に位置する現場スタッフにどのような罵詈雑言を浴びせていたか想像に難くない。

きっと中島組は真性マゾの集まりに違いない。

(文句なしの傑作です。韓国映画史上、最高傑作と言えるでしょう。「冬のソナタ」しか知らない人たちは、韓国映像界に関しての認識を改めると思います。)

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2010年6月18日 (金)

原節子さんのお誕生日に寄せて

多くの人にとってどうでもいいことなのか知れないが、小津映画のミューズであった原節子さんが90歳の誕生日を昨日迎えた。そして、それが英国ガーディアン紙に取り上げられていた。

海外の人にとって日本映画と言えば今では「北野武、宮崎駿・・・・・もっと詳しい人にとっては三池崇史、青山真治黒沢清」ぐらいだと思うが、一昔前は「小津安二郎、溝口健二、黒澤明」の時代だった。(ちなみになぜかフランス人は青山真治の「ユリイカ」が大好きらしく結構な頻度でその話題になる)

日本にいると海外の人から見て日本という国がどのような国だと思われているか、無自覚になっている場合がある。もちろん、未だにサムライ、ゲイシャのイメージ、もしくはテクノロジーの国と見られているケースはあるが、質の高い映画それに漫画を輸出する国として結構高く評価されている。

今でこそ北野武映画が世界的に評価が高いが、それはあくまで「小津安二郎、溝口健二、黒澤明」が確固たる地位を築き上げ、その同じ文脈で語られているに過ぎない。特に小津映画と北野映画の類似点を指摘する評論家は多く、彼らが多用する空のショットになどについて熱く議論されている。

僕は10代の頃、「好きな女性のタイプは?」と聞かれたら迷わず「原節子」と答えていたほどのマニアだった。正直、演技はうまくはなかったが、その誇り高き気品というものがスクリーン全体から漂ってきており、神々しいほどの存在感があった。

日本のこのような誇らしき映画の歴史も知らずに、海外でよく日本のことを卑下している日本人を見かけるが、それは間違った認識と言える。これほど豊穣な映画の歴史を持つ国はじつはなかなかない。スピルバーグもカンヌでパルムドールを二度獲得した今村昌平監督の大ファンであることを公言しているし、タランティーノの日本映画フリークぶりはつとに有名だ。(彼は深作欣二を始めとして、石井輝男、三池崇史などの日本映画が大好きで、彼のほとんどの映画で日本映画へのオマージュが散見される)

別に今更「自国に誇りを持て」などと時代遅れなことは言わないが、外国人とコミュケーションを成立させるにあたり、自国のことを語れない人間はかなりの高い確率で相手からナメられる。映画でも漫画でも、はては茶道でも華道でもなんでもいいが、自分が情熱を燃やせる国産品をひとつ持っておくと、外国人とコミュケーションは取れやすい。

西洋かぶれ(これも死語か?)がかっこいいと思っている時代錯誤の人間はいつまで経っても外国人とまともにコミュケーションなど取れないだろう。

では、改めてこう言おう。
「原節子さん、お誕生日おめでとうございます」

あと10代の頃、鎌倉近辺をさまよい歩き、この辺りに住んでいるのだろうかなどと思いながら、周辺をうろつき回ってごめんなさい。

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