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2011年4月26日 (火)

手嶌葵とチェット・ベイカーについて

チェット・ベイカーと手嶌葵には全く相関関係はない。

片やドラックで身を持ち崩し、片や今をときめく日本の女性歌手である。手嶌葵のどこまでもピュアな歌声を聴いていると、その反動でどうしてもチェット・ベイカーの歌声を頭の中で思い浮かべてしまう。

このあいだオーストラリアで十数年ぶりにスティーブンと再会したが、彼から開口一番「まだチェット・ベイカーは聴いているのか?」と訊かれるくらい、彼と共に過ごした日々はずっとチェット・ベイカーを聴いていた。

そもそもの始まりは「MY FUNNY VALENTINE」というアルバムをたまたま18の頃に購入して、すっかり魅了されたのがきっかけだった。

(この曲のこのバージョンをCDのリピート機能を使って何百回も再生した記憶が・・・・)

彼の楽曲には彼以外の存在は介在しない。完全に自分の世界を形成している。それが「アートだ!」と言われれば、そうなのだろう。しかし、手嶌葵の歌声を聴いていると、「その逆もまた然り」と思える。彼女の歌声は、あくまで純粋にまるでひとつの楽器のように心に響いてくる。

今は手嶌葵の歌声がチェット・ベイカーよりも心地良く響いてくる。それが年を取ったということならば、それはそれでいい。思春期の頃にはチェット・ベイカーの歌声は魔力的な魅力で心に響いてくるのは確かだろう。(そういえば、村上龍の「コインロッカーベイビーズ」にも彼の声の魔力が引用されている箇所があった記憶がある)

そのようなことを考えると、人の歌声というのは面白いなと思う。その人の歌声を聴いただけでずいぶんと多くのことが伝わってきてしまう。「おれの歌を聴け、私の歌を聴いて」というようなレベルの歌手は手嶌葵さんのエゴの全くない歌声を聴いて、出直して欲しいと思う。

チェット・ベイカーの歌声は、完全に自己完結した閉ざされた空間に存在している。それもそれでまた美しい。人からの庇護や注目など彼にとってはどうでもいい。彼の世界には彼しか存在しない。そんな孤高の歌声だ。

ここブエノスアイレスにはどちらかと言うと、手嶌葵の歌声がよく似合う。チェット・ベイカーの歌声は、この街と反発し合ってしまう気がする。遠く離れたヨーロッパから隔絶されたヨーロッパ世界・・・・・孤高の街と孤高の人は反りが合わないのだろう。

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